2012年10月21日日曜日

過去の手記

日本の独立承認

 「そのとき歴史は動いた」を見ていたときのメモに加筆したので、暇な人は読んでみてください。
   昭和26年9月8日(1951)敗戦国に対する制裁的な部分を残した条約にあまりにも寛大な内容でサンフランシスコ条約が締結されたことは、時代の組み合わせなのか、偶然なのか、呼び寄せたのか、は知るところではないが、利権や利得に支配された人間の心の彷徨いが垣間見える。

   昭和26年1月、吉田茂(72歳)は、日本独立の道を模索しながら連合国並びに関係する諸外国との不利な条件の回避を第一義として粘り強く堂々とむしろ力強い交渉で乗り切ることのチャンスを窺っていたといえる。
   敗戦国が具の根も出ない状況で意見を通すなどということは到底不可能なことであったはずだが、戦後の混乱期を経て時代は大きく変化し始めていたといえる。本来的には多額の賠償金と割譲など、具の根もなく行われたであろうし東西分割もソ連と中国などがタッグを組んで迫って来たならば相当やばかったと思われるのである。
   アメリカが日本への駐留を目論み、その青写真に沿ってフランシスコ条約が締結されたことは明らかであり、吉田が「独立後の日本にアメリカが駐留してよい」その代わりに「請求権を放棄する」などバーター取引が行われたわけだ。
   時の悪戯なのだろうか、北朝鮮が38度線を越えて韓国に迫ったとき(朝鮮戦争勃発)、アメリカは韓国に33万人を派遣、アメリカは日本の再軍備を要求してきたのである。連合国のトップ(アメリカ)が作った憲法を作った張本人が破れと言ってきたわけだ。時のダレスの心中はいかばかりかと言えば、戦争とは奇麗ごとや美談ではないし、勝つ負けるかであり加勢するか(拒絶するか、中立を保つかの選択の余地はない)の選択しかないってことなのである。

   その頃の日本に財政的余裕はない(などなかった)し、再軍備を容認することは国民感情からも叶わぬことと映っていたはずである。よって交渉は決裂したが日本がこれからの世界戦略を行ううえでの極東の拠点であることを熟知していたアメリカがそのまま日本を放置するわけもなかったし、タイムスケジュールの線上に組み込まれていたわけだ。
 当然、「再軍備してもいいよ」という配慮(ダレス)に対して、吉田が嫌がることを想定していなかったようだ。「日本は、自由世界に貢献しないのか」とのダレスの訴えにも、日本国民はどん底であり腹ペコなのに軍備を拡大できないとの心情を表したのである。
 日本が、平和憲法の下、第9条の平和に生きることに注力し、近隣諸国への懸念や配慮から吉田は「再軍備に踏み切るべきか」「寛大な講和の成立?」「日本の復興?」「国民にとっての敗戦の傷跡の残存?」「再軍備をどれだけの人が認めるだろうか?」など沈思熟考したのだった。
 このとき吉田が再軍備をどう捉えたかによっては、すでに憲法改正は行われていた可能性もあるが、第9条の取扱はこのサンフランシスコ条約の駆引き如何では改正された可能性は十分にあったわけだ。
 アメリカは、自国の都合で憲法を押し付けたが、世界戦略に不都合が生じた場合、憲法ですら破ることをよしとしたのである。アメリカにとっての日本国憲法の重みというものの中身が見えてくるようだ。吉田が「将来軍隊を作る」と段階的な軍隊の創設を約束し、連合国は「請求権を放棄する」、また「日本の戦争犯罪の追及をしない」など日米だけの協定書(秘密裏に)が作られたわけだ。「日本に基地が置かれるのは本当なのか」という囁きをかなぐり捨てて「領土を確保したい」「日本人として統治する」「領土を日本に残す」ということでアメリカと合意していったのである。

 これによって、アメリカ主導の講和会議が開催されることとなった(中国・中華民国、北朝鮮・韓国を招待しなかった)が、当然ながらソ連が中国の参加がないことを理由に会議の無効を主張し反対したが、52参加国中49カ国が調印し独立が承認されたのである。
 このとき日米は秘密裏に日米安全保障条約を締結したのである。国民のための最善の方法として、日米安保条約を吉田は選択したのであるが、アメリカの世界戦略上の重要な拠点としての意味合いを深くし、米ソ冷戦への道を直走ることになるのだ。
 冷戦の終結後もこのアメリカの世界戦略の構想は微動だにしておらず、日本の世界戦略の重要性はますます高まり最前線基地と化す日もそう遠くないのかも知れない。安倍流の発想が神国日本を再度復活させようとするとき、講和会議の裏側で迫られたアメリカの本音は日本の再軍備(軍隊を段階的に作る)を容認し、片腕となれと言っていることから、憲法改正への拍車がさらに強力にかけられていくことであろう。(誤字脱字容赦)




永遠なれ「平和憲法」

 敗戦処理において関係列強の訴追要求に抗するため「戦争放棄」を日本に認めさせるマッカーサーとそれを受けざるを得なかった吉田茂との対峙は、歴史的に意味深い。
 「戦争への反省」(昭和天皇の戦争責任)・「平和への責任」について、国家と皇室をまもるために、戦争放棄を受け入れ、自衛権の放棄すら認めた吉田茂だった。

 日本国憲法(昭和21年11月3日公布、翌年5月3日施行)。
 昭和22年、東西冷戦が始まり、昭和25年には朝鮮戦争が勃発する。アメリカは国連軍として参戦し、日本は海上保安庁が機雷の除去などの協力をしている。
 このことが憲法第9条への抵触を懸念し極秘扱いとされた。(中谷氏の機雷での死などは箝口令がしかれ封印されている。) 
 昭和26年(1951)9月8日サンフランシスコ講和条約が締結され、日米安保条約も秘かに締結されたわけだが、この吉田(首相)の選択が問題となる側面もあった。
 吉田(首相)とアメリカとの対峙の果てに反共の砦として「どういう国づくりをするか」というアメリカ側の視点では、「人と態勢をどうするか」さまざまな思惑が動いただろうが、自由民主党への流れが作られ、所謂、五十五年体制が確立されていくわけだ。
 アメリカの世界戦略が日本を盾として極東支配をするためには、日米安保条約はどうしても締結しておかなければならない戦略上の布石だったわけで、戦争放棄を迫りながらも数年がうちに日本に再軍備を求めてきた事実をみてもアメリカは、もともと「戦争の放棄」を世界戦略上、日本にのませただけであったことが頷ける。しかし、「再軍備となれば日本国民に隠しきれない」と判断した吉田(首相)だったが、うまくすり抜けて自衛隊(戦力に至らしめない)を発足させ、「9条は自衛権を否定していない」とし、警察に準じた存在として陸海の保安部隊を決断した。

 このことが過去の自己の発言から苦しい情況をつくった。
 時は改憲論と護憲論を中心としたトレンドを形成し、昭和29年日本民主党(鳩山)は吉田の矛盾をつき退陣に追い込む。
 時の幹事長:岸信介(A級戦犯容疑→その後不起訴)、アメリカの支配からいまだ抜け出せない日本に、「われわれの手でつくられた憲法」の実現を目指し、岸は会見で「3分の2以上の賛成が必要」と述べ自主憲法への強権を示した。
 一方、軍備増強につながると護憲論(浅沼:大政翼賛会に参加した後悔から社会党へ参加)を展開した浅沼は刺殺されている。

 昭和29年、水爆のビキニ環礁実験(第五福竜丸の被爆)、
 昭和30年広島で原水禁、
 昭和32年砂川事件(立川基地)、

 憲法をめぐる争いは解釈論の色が濃くなり「解釈改憲」と呼ばれるに至る。 
 
 昭和32年2月25日岸内閣成立、日米安保条約の改定(不平等な条約として)を選挙で不平等さを訴え勝つことを考え、憲法改正も可能だと考えたようだ。
 改正安保条約に盛込まれていた「共通の危険に対処すること」を牽制するソ連は「ソ連に向け偵察機を発進させる基地を攻撃する」と伝えてきている。
 昭和35年5月、新安保条約の強行採決→民衆のデモ開始。
 「戦争はもうイヤダ」との悲痛な訴えだった。
 平和を希求する訴えは、万人共通の願望である。
憲法が侵略戦争・国際紛争を国権の発動でやることを禁止し、二度と同じ徹を踏まないように歯止めをかけるというのは、その命で「悲惨」の渦中にいたが故に体得するところの止むに止まれぬ心情からの発露であり、「悲願」でもある。

 この憲法は練りに練られ、主権を在民とし、戦争放棄と象徴天皇制をシビリアンコントロールを軸足として運営されるようにできている。
 アメリカから単に押し付けられた憲法ではないと思うし、人間としての良識と英知が結集されているとも考えられる。法の縛りという観点から憲法を考えるとき、解釈改憲の域を出ないというなら、これほど脆い縛りもないと思うし、人間に「真の良識」を共通して信じることができない以上、この憲法を改正することはあまりにも危険だと言わざるを得ない。

 安保条約第10条もさまざまに解釈できるが、その時期がくれば、失効してもいいとその行間から読めるが一向に失効しないのは自明でもある。
 戦後60年を経て日本が世界に訴えることがあるとすれば、「永遠の平和のために」敢えて再軍備の道を直走るのではなく、その永遠のメッセ-ジとして「この憲法を死守する」ということだろう。

 確かに隣国の脅威とか、はたまた黒舟とかの話が出されると、目には目を歯には歯をとなるのが自然でもある。だからこそこの憲法を平和の砦と考える必要がある。
 一度改正されれば歯止めがかからず、徴兵制がしかれ軍事国家への道を歩んでしまう。いつか来た道を再び踏むという愚を犯すことになるし、未来の人々に負の遺産を残すこことなる。(NHK「その時歴史は動いた」の個人的なメモに加筆したものですので、敬称やその他の不具合な箇所も多々あろうかと思いますがご容赦願いたい)




自主防衛の行方

 田母神元幕僚長発言の真意はよく分からないが、政府見解と齟齬する内容が問題視され国民を驚かした発言の背景にあるものが何であったのか興味深い。

 その真意については計り知れないが、日本敗戦の背景にあるものを整理し、日本の真の自立と日本の精神的な軸足を確立し、日本が歩んだ戦前・戦中の軍事行動の肯定論を展開することで、新たな時代の軍事行動の正当化を図る狙いがあったものと考えられる。
 安倍・石破・守屋との繋がりや今回の受賞の背景などから多くの思惑さえ感じさせるところであるが、田母神発言のある種独特の自信とアグレッシブな言葉から炙りだされる世界観並びに戦争観から推察するところは、民主主義(アメリカ発)、シビリアンコントロールという枠組みの一部に亀裂が入り、その裂け目に楔が打たれ、国民と自衛隊との間に計り知れない温度差が生じ始めているのではないかということである。

 その自説とする
 ①日本は侵略国家であったのか
 ②日中戦争は侵略戦争ではない
 ③太平洋戦争はルーズベルトによる策略であった
 ④日韓併合は国際条約に則って合法的に行われた、

などの侵略否定と解釈憲法による集団的自衛権の容認は、果たして客観的な妥当性を持ち得ることとして信じるところであるのか、それとも独我論的な宣伝効果を狙ったものなのか、甚だ理解に苦しむことである。

 転じて自衛隊で思い出すのは三島由紀夫である。市ケ谷駐屯地で最期にこう叫んでいる。

聞けお前ら、聞け、命を懸けて諸君に訴えているんだぞ、諸君は武士だろ、武士ならばだ。自分を否定する憲法をどうして守るんだ。諸君の中に一人でも俺と一緒に立つやつはいないのか、一人もいないんだな。もはや憲法をまもることになってしまったんだよ。自衛隊が20年間、血と涙で待った憲法改正というものを、機会がないんだよ。もう(政治プログラム)が崩壊したんだ。ついに崩壊したんだ、それは。どうしてそれに気がついてくれなかったんだ。去年の10.21から1年間、俺は自衛隊がおこるのを待った。もうこれで憲法改正の(資格)はない。』(陸上自衛隊市ケ谷駐屯地、盾の会4名とで乱入し総監を監禁し、自衛隊員800人の前で突如演説)と。

 当時の自衛隊に存在した感情と現在のそれとが大きな隔たりを持っているとするならば、それが何であるのか見極める必要がでてきているのである。

 その後割腹、45歳。三島が望んだ自衛隊の名誉回復と安保からの脱却・自主防衛。
 悲惨な戦争の傷が、ある面では風化しつつある今日、アメリカの傘下で傭兵として存在し続ける自衛隊の復権とは、平和憲法下では違憲状態と背中合わせになっており、自主防衛を当然視する自立国家の宿命的な課題にどう突破口を見つけ出すか、複雑な人間心理が蠢いていたに違いない。「自分の国は自分で守る」という当然のことができていない日本に虚無感さえ感じ、生きる意味のない時空と考えていた三島の自決は今後どういう示唆を与え続けるだろうか。日本が未だに余りにも重い十字架を背負い続けていることだけは確かなようだ。






格差社会に秘められた爆発力を舐めるな


   「変革・改革は何のため・誰のため」見極めはできているか?

   小泉が日本のカリスマ政治を崩壊させたが、既に国民はカリスマなき国家を見透かしてしまった!2005年郵政民営化すればすべてが良くなる、状況はすべて変わるごとき殺し文句で押し切った。
   しかし、格差社会だけがクローズアップされる社会がそこにある。解散権が空砲となり、腰砕けの政権が自決を決断した。44年ぶりに第一党を逸した自民党、よかったね!民主党だけがよかったわけだが、実際は何がよかったのか分からない。政治のパラドックスとしての自民党政権だが、血が通わなくなった脳では困るという警告とも思える。目先なんですよ、目の前にある困難に誰が手を差し伸べてくれるのか、その答えをくれる政治しか期待できないという解答なのだろう。
   9日前に出馬した新人が何期もその勢力を守ってきた保守党に勝利したが、その状況倫理は徹底的に分析する必要がある。誰が立候補者であっても自民以外に票は流れたわけで、何も変わらない政治に、大きな変化としての政権与党以外の勢力に期待を寄せたということだけのことである。
   かといって、民主が何ができるか未知数であることは間違いない。民主党がその大変な労作業を敢行するというのなら、多くの無私の精神と犠牲を伴わせて人間精神の高みに達する以外に解決することができないということになるのだろう。しかし、利害を調整するという役割だけに終わるのであれば、たとえクリーンヒットがあったとしても自民と大差があるとは思えない。
   しかし、そこを乗り越えて「格差社会」を是正することができたならばそれなりの評価が得られることだろうし、歴史的にも意味のある選挙だったことは受け継がれていくことだろう。