2007年12月16日日曜日

江戸城松の廊下で 「馬鹿にしちゃた」周辺

 「浅野内匠頭が、江戸城松の廊下で吉良上野介に斬りかかる事件」所謂、「松の廊下」だが、こうした事件というのはビジネスの世界でも日常茶飯事であるが、「切った張った」の世界に及ぶにはそれなりの情況というものが背後に隠れているものだ。それが大衆の面前(複数の他人の前)で恥を掻かされたり」・「辛い思いにさせられたり」ということで怨念になっていったりすると、普通の人間でも殺意に発展することまではないにしても平和的な手段以外の方法をとりたくなるのだ。 浅野内匠頭は根回し術の勉強(聞く相手が悪かったという視点、自助努力で何とかならなかったのかという視点、じっと我慢をすべきではなかったのかという視点、)のため吉良上野介に教え(なぜ快く教えてあげなかったのかという視点、なぜそういう意地悪をするに及んだのかという視点、なぜ人を軽ろしむ性格になったのかという視点)を乞おうとした。ここまでは特に問題がないと思うのだが「馬鹿にされ」咄嗟の行動に及んだのだが、ここの人を馬鹿にするという人間行動の根底には、差別とか階級とかの根強い深層心理があるようだ。 「馬鹿にされ」の背景にある、人間が馬鹿にされたときの心理状況はどんなものか、忍耐と我慢で乗り切れるという心理状況を持っている人なら徹底的に我慢すればよかった。しかし我慢にも許容量というのがあるだろうし、さまざまな複合的な要因が加味されれば、さらに複雑な心理が生じてその許容量が極端に減少するなんてこともあるだろう。そうなれば、何時だって爆発してしまう。自らの命を引き換えに斬りかかったとき、階級社会が生んだ精神的側面をそのまま背負う形で浅野内匠頭の「馬鹿にされた」は「殿中である」という意識を超えてしまっていたのだ。 そもそも人が人を「馬鹿にする」という行動は、傲慢な心の象徴的な表現方法であって、人間愛(慈愛)の欠乏と精神練磨の不足からおこるんじゃないだろうか。「馬鹿にする」のもいい加減にしろってとこかな?